仙台藩出会い

仙台藩出会い - 仙台藩出会い 『』移動: ナビゲーション, 検索仙台藩出会い (せんだいはん:仙臺藩出会い。
以下、常用漢字の仙台を使用) とは、江戸時代に陸奥国(後の陸前国)宮城郡仙台(現在の仙台市青葉区・青葉山)に居城(仙台城)を構えた藩出会い。
江戸時代全期を通じて伊達家が治めた。
現在の宮城県と岩手県南部がその後継に当たる。
目次1 概要2 歴史2.1 関ヶ原の戦いと仙台築城2.2 慶長遣欧使節団の派遣2.3 危機と中興2.4 戊辰戦争の敗北と北海道開拓3 歴代藩出会い主4 経済5 知行地構成5.1 藩出会い領5.2 支藩出会い・分家筋6 支配体制7 防衛ライン・城・要害7.1 藩出会い全体の戦略[要出典]7.2 戦術的重要施設8 重臣9 家臣の家格9.1 禄高9.2 知行地の拝領形態10 藩出会い邸及び江戸における菩提寺11 関連項目12 脚注13 外部リンク// 概要伊達政宗の騎馬像(仙台城・天守台)仙台城・大手門隅櫓と石垣(仙台空襲で焼失後、隅櫓は再建、大手門は再建されず)外様大名の伊達政宗が立藩出会いし、以降、明治の廃藩出会い置県まで代々伊達家本宗家が統治した。
伊達家本宗家は、大広間詰国持大名。
代々、将軍家より松平姓を許され、歴代藩出会い主のほぼ全員に陸奥守の官位が与えられ、世嗣の殿上元服・賜諱(偏諱の授与)があった。
江戸上屋敷は汐留(のちに新橋停車場、現在は日本テレビタワーが建つ)、下屋敷は現在の東京都港区南麻布1丁目一帯(仙台坂付近)、品川区東大井4丁目〜南品川5丁目(旧仙台坂付近)にあった。
表高62万石で諸藩出会いのうちで第3位、実高は約100万石あった。
地方知行によって多数の陪臣を抱え、直属家臣約7000、陪臣をあわせて2万数千から3万の兵力を擁した。
領内の産出米は大消費地・江戸の食料を支え、干しアワビやフカヒレは長崎俵物として外貨を稼いだ。
歴史 関ヶ原の戦いと仙台築城豊臣秀吉の朝鮮出兵(慶長の役)の際、名護屋城には20万余の在陣軍が置かれた(朝鮮侵攻軍は14万1500人)。
名護屋在陣軍の代表格である徳川家康と前田利家は、雑兵同士の「水汲み騒動」をきっかけに、両家を支持する諸大名と共に、徳川方、前田方に分かれて合戦寸前の状態となった。
このとき伊達政宗は諸大名を代表し、徳川家康、前田利家のそれぞれと直談判して、戦いを未然に防いだ。
この事実は、豊臣政権下において、伊達政宗が徳川家康、前田利家に匹敵する大大名であったことを示している。
秀吉は死の直前、五大老を指名し後事を託した。
伊達政宗は、豊臣秀吉の西日本からの天下統一事業の際、早くから秀吉に恭順して五大老に選ばれた大名たちとは異なり、関東の北条氏政、北条氏直親子と同盟して秀吉と敵対したため、五大老には指名されていない。
秀吉が死ぬと、家康は秀吉の遺言を無視し、伊達政宗と縁戚関係を結んだ。
政宗は家康の政権奪取に協力し、前田利家ら五大老、および五奉行の中心人物、石田三成らに対抗した。
家康は前田利家の死後、前田家を継いだ前田利長に家康暗殺未遂事件の容疑をかけ、前田利長を屈服させた。
家康・政宗を中心とする“反豊臣勢力”は、他の五大老、毛利輝元、上杉景勝、宇喜田秀家および石田三成らとの対立を深刻化させた。
こうして、家康により豊臣政権は分裂させられ、関ヶ原の戦いへと繋がっていく。
「関ヶ原の戦い」では、伊達政宗は混乱に乗じた勢力拡大、さらにあわよくば天下取りをも狙っていたと見られる。
1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」に際し旧領復活を狙う伊達政宗に対し、徳川家康は戦いの直接原因となった上杉景勝の動きを封じ込めるという重要な役割を与えた。
家康は政宗に、東軍勝利の暁には豊臣秀吉に没収された伊達郡、置賜郡などの旧領を回復し、所領を100万石にまで加増するという約束(いわゆる「100万石のお墨付き」)をした。
しかし、合戦が長期化すると見た政宗は、家康をあてにせず自らの力で所領を切り取る戦略を取る。
政宗は上杉領へ攻め込み、上杉景勝から刈田郡を奪い取った。
また、上杉勢に攻め込まれた最上義光へも援軍を送るが、合戦を傍観させる。
さらに、政宗は同じ東軍の南部信直の南部領和賀郡で元領主・和賀忠親を支援し、和賀一揆を起こさせる。
ところが、政宗の予想に反し、中央での合戦は短期間で終結してしまった。
結局、政宗が切り取ることができた所領はわずかで、一揆扇動も露見して失敗しまう。
戦後、家康は政宗の裏切り行為を不問に付す代わりに、政宗と約束した「100万石のお墨付き」を反故にした。
露骨な野心を家康から警戒された政宗は、戦勝後に有力大名の中で最後まで帰国を許されず、江戸の天下普請に動員されるなど、2年間を領国外で過ごした。
この間、1601年(慶長6年)、政宗は国分氏の居城であった千代城を修築(実質は新築)し、「仙台城」と改称し、居城を岩出山城から移した。
同時に城下町も建設し、伊達政宗を初代藩出会い祖とする仙台藩出会い(62万石)が成立した。
慶長遣欧使節団の派遣欧州における報告書に描かれた支倉常長の肖像。
Faxicuraとの記載がある伊達政宗は仙台藩出会いとスペインとの通商(太平洋貿易)を企図し、1613年(慶長18年)、仙台領内で西洋式帆船(黒船)、サン・ファン・バウティスタ号を建造した。
当時、フェリペ3世を国王とするスペイン帝国は、世界最大の植民地帝国であった。
政宗は家臣の支倉常長を外交使節に任命すると、支倉常長を中心とする一行180余人をノビスパニア(メキシコ)、イスパニア(スペイン)、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。
当時は、西日本の藩出会いを中心に東南アジア地域との貿易が盛んであったが、直接ヨーロッパと貿易をすることで大きな利潤を得ようとしたものである。
伊達政宗が使節を送った目的として、スペインとの軍事同盟、さらにはそれを利用しての倒幕があったとの説もある [1]。
慶長遣欧使節団の派遣は、対スペイン貿易を志向する徳川幕府の承認を得たものであった[2]。
なお、支倉常長は、「初めて太平洋・大西洋の横断に成功した日本人」である。
しかし、翌年、幕府は禁教令を出し、キリシタン及び宣教師の弾圧を始める。
この情報がヨーロッパにも伝わり、仙台藩出会いによるスペインとの外交交渉は、失敗に終わった。
のちの明治維新によって成立した明治新政府は、岩倉具視を全権大使として、欧米視察団(岩倉視察団)を派遣する。
このとき彼らがヨーロッパで見たものは、戊辰戦争で新政府が倒した仙台藩出会いの藩出会い祖、伊達政宗が、「自分たちより260年も昔、ヨーロッパに外交使節団を派遣していた」という衝撃的な事実であった。
当時、天下は実力のある武将の回り持ちで統治されるという論理があった。
この戦国の論理に基づけば、信長、秀吉、家康の次は政宗の番だということになり、政宗は家康の死の直後、徳川幕府を倒すべく挙兵しようとした。
しかし、結局政宗は倒幕の挙兵を断念し、家康に次ぐ徳川幕府のナンバー2として、幕府を支える道を選んだ。
[要出典] 危機と中興伊達騒動が起きた酒井家上屋敷跡千代田区、丸の内政宗の跡を継いだ第二代藩出会い主・伊達忠宗は内政を充実させると共に、正室に徳川秀忠の養女振姫(実父は池田輝政)を迎えるなど、将軍家との関係を深め、幕府へ従順な態度を示し幕府の警戒を解こうと努力した。
しかし、後継者であった振姫との子光宗が夭折しすると、櫛笥隆致の娘貝姫との間に生まれた綱宗が後継者になる。
忠宗が没すると、伊達騒動・寛文事件と呼ばれる事件が起きる。
貝姫の姉が後西天皇の生母で、綱宗は天皇の従兄弟になり、幕府に警戒されたと言われ、綱宗は隠居させられ、幼君亀千代がたてらた。
亀千代は成人し、四代藩出会い主伊達綱村となったが、綱村は重臣らと対立に陥り、再びお家騒動の気配が生じた。
これらの騒動の背景には、仙台藩出会いでは大身の家臣に対して、中世的な地方知行制であったのを、地方召上げを行い、近世的な蔵米知行制へ切り替えようとしたことがある。
この一連の伊達騒動により、仙台藩出会いは大身家臣への蔵米知行への切り替えに失敗し、廃藩出会い置県まで地方知行制が続く。
五代藩出会い主伊達吉村は善政に成功し、中興の祖と称えられる人物である。
吉村は藩出会い財政の再建に取り組み、買米制を利用して利益を上げる一方、幕府に鋳銭を願い出て、仙台藩出会い内の銅を利用することを条件に、許可を得た。
石巻に鋳銭場(現代の石巻駅前、地名に残る)を設置し、寛永通宝を鋳造した。
この他に「仙台平」と呼ばれる絹織物の生産、鉱山開発、馬産の奨励を行った。
六代藩出会い主伊達宗村の代までこれらの財政再建策は続いた。
戊辰戦争の敗北と北海道開拓戊辰戦争では奥羽越列藩出会い同盟の盟主となった。
会津藩出会い及び庄内藩出会いに対する同情的雰囲気と、孝明天皇を毒殺した疑いがもたれている新政府の横暴に対する義憤に基づくもので、正義は我にありとの気概が高かった。
仙台藩出会いは日本でも有数の兵数を誇り、蝦夷地警備の経緯から、新政府軍には劣るもののそれなりの性能の兵器を有していた。
しかし、新政府軍がイギリスから購入した火器との性能の差によって、新政府軍に敗れた。
「白河城攻防戦」では会津藩出会いと共に同盟政府の主力軍として奮戦し、「平潟戦線」においても主力軍として新政府軍と戦った。
「白河戦線」、「平潟戦線」での決戦に敗れて退却。
会津藩出会いが若松城に篭城する一方で、仙台藩出会いは北上・追撃する新政府軍と相馬口駒ケ嶺付近で激戦となった。
相馬藩出会いの寝返りにより、仙台藩出会い兵1266人が戦死して恭順・開城となった。
明治政府より賊軍盟主の責任を問われ、仙台藩出会いは62万石(実高100万石ともいわれる)から28万石に減封される。
この激烈な減封により、仙台藩出会い士たちの生活は完全に破綻し、在地で帰農する者の他、新天地を求めて北海道へ移住する者たちを大量に出した。
こうして、仙台藩出会い士による北海道開拓が行われた。
なお、城下町・仙台では、侍町だった東一番丁で没落士族たちが商売を始め、現在の中心商業地「一番町」へと繋がる。
蛇足であるが明治時代に外務大臣を務めた、紀州藩出会い出身の陸奥宗光の本来の氏は伊達氏であるが、政宗以前に駿河国に移住して分家となった駿河伊達氏一門の出である。
主な集団移住地亘理伊達家(宮城県南東部、現在の亘理町周辺を治めていた)は、家臣たちと共に有珠郡(現在の伊達市)へ集団移住した。
あわせて船岡柴田家中も亘理伊達家の入植地に近い場所に入植した(現在の伊達市舟岡町)。
岩出山伊達家(宮城県北部、現在の大崎市岩出山周辺を治めていた)は、家臣たちと共に札幌郡・空知郡(最終的に現在の当別町)へ集団移住した。
片倉家(白石城主。
宮城県南部、現在の白石市周辺を治めていた)は、幌別郡(現在の登別市幌別)および札幌郡最月寒(モツキサップ。
現在の札幌市白石区)および発寒(現在の札幌市手稲区)へ集団移住した。
角田石川家(宮城県南部、現在の角田市周辺を治めていた)主従は、室蘭郡(現在の室蘭市)に入植後、元家老等一部を残し空知地方に入植した(現:栗山町)。
一関藩出会いは白老町に、水沢藩出会いは札幌市豊平区平岸に入植した。
また、仙台藩出会いの主要施設は新政府に接収された。
仙台城二の丸に東北鎮台(後、仙台鎮台→陸軍第二師団)が置かれ、三の丸は錬兵場になった。
伊達政宗が隠居した若林城(若林区の由来になった)に至っては、宮城集治監(現在の宮城刑務所)とされ、西南戦争の捕縛兵の収容施設とされた。
廃藩出会い置県によって、仙台藩出会いは、仙台県・角田県・登米県・胆沢県に分かれた。
最終的に、旧仙台藩出会いの北部(現在の岩手県の北上市から南の地域、沿岸では気仙郡)は岩手県に組み込まれ、現在の新地町は福島県に編入され、その他のほとんどの部分が宮城県へとなっていく。
なお、仙台藩出会いが「仙台県」にならず「宮城県」と改められたのは、「仙台県」という県名がもつ雄藩出会いのイメージを抹殺するためであった。
歴代藩出会い主伊達(だて)家(松平陸奥守家)外様 大広間 国主(大身国持) 62万石→28万石政宗(まさむね)〔従三位、陸奥守・権中納言・参議〕忠宗(ただむね)〔従四位下、美作守のち陸奥守・権少将・侍従〕綱宗(つなむね)〔従四位下、陸奥守・(隠居後)若狭守・権少将〕綱村(つなむら)〔従四位上、陸奥守・左近衛権中将〕[3]吉村(よしむら)〔従四位上、陸奥守・左近衛権中将〕宗村(むねむら)〔従四位上、陸奥守・左近衛権中将・侍従〕重村(しげむら)〔従四位上、陸奥守・左近衛権中将・侍従〕斉村(なりむら)〔従四位下、陸奥守・左近衛権少将・侍従〕周宗(ちかむね)〔早世のため官位なし〕[4]斉宗(なりむね)〔従四位下、陸奥守・左近衛権少将〕斉義(なりよし)〔従四位下、陸奥守・左近衛権少将〕斉邦(なりくに)〔従四位上、陸奥守・左近衛権中将〕慶邦(よしくに)〔従四位下、陸奥守・権中将〕宗基(むねもと)〔正四位〕反明治新政府の罪により28万石に減封宗敦(むねあつ)〔正四位〕 経済仙台藩出会いの主な産物は米である。
江戸時代には、北上川流域の湿地帯の開拓などの新田開発によって実高100万石とも言われるほどに多くの米を収穫できるようになった。
また、買米制と呼ばれる事実上の専売制度が導入されていた。
その米を東回り航路で江戸に運んで大きな利益を得た。
一時期、江戸に流通する米の半数は仙台米と言われた時期もあった。
そのため、石巻はこの航路の拠点として大いに発展した。
また、一部の米は海産物とともに大坂にも運ばれ、上方との交流も盛んであった。
これによって藩出会い財政・農民の暮らし共に潤った。
現米収入のみに限定しても楽に100万石を超え、表高で上回り幕府に融資を行うほどであった加賀藩出会い・殖産興業に成功した末期の薩摩藩出会いよりも当初から財政的に豊かであり、政宗の時代にはローマへ単独の藩出会いで使節を送るほどの力を有していた。
江戸時代末期の九州人の安井息軒の読書余滴に「二百万石余」、同じく江戸時代末期の九州人の帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある。
ただし、東潜夫論は、佐渡12万石(1.7万石)、隠岐6万石(0.5万石)と、太閤検地の10倍表示されており、注意を要する。
佐渡国の佐渡金山についても触れており、米の生産量以外の豊かさも含んだ指標として石高が使用されている。
だが、米に頼りすぎた経済は藩出会いに他の産品の開発の動機を失わせ、藩出会い財政は米の出来・不出来及び米相場の状況によって翻弄されることになる。
凶作が起きれば藩出会いは大借金を抱え、豊作でかつ米相場が高値推移の年には積年の借金が一気に返済できてしまうといった具合である。
まさに「農業は博打である」という格言を地で行く藩出会い経営であった。
また、三陸沖に漁場を持ち、良港に恵まれたことなどから、三陸海岸で採れるアワビやサメを、干し鮑やフカヒレに加工して「長崎俵物」として中国に輸出していた。
三陸産の干しアワビは、中国の清において「吉品鮑:カッパンパオ」とよばれていたが、それは、当時仙台藩出会い領だった現在の岩手県大船渡市吉浜から名前が取られている。
米の生産高は、およそ100万石強であるが、鉱山資源が日本国内としては豊富であり、鉄鋼業と、馬産を奨励して、成功したことや、三陸沖に漁場を持ち、良港に恵まれたことなどがあげられる。
知行地構成仙台藩出会いの北に位置する盛岡藩出会いとは、現在の釜石市南部・住田町北端・奥州市北端・北上市南部・金ケ崎町北端を通る線を境界としていた。
藩出会い領俗に「伊達62万石」 といわれる。
陸奥国内 - 現在の宮城県全域と、岩手県南部、福島県浜通り北部におよび、石高は約60万石。
陸奥国外 - 各々飛地として存在し、計約2万石。
常陸国(現在の龍ケ崎市を中心に信太郡・筑波郡・河内郡に9784石)下総国(豊田郡に270石)近江国(蒲生郡・野洲郡に9999石)(なお、上記括弧内の郡名は仙台藩出会い領があった郡を示すが、郡全体が仙台藩出会い領であったということではない。
)表高(将軍家公表石高)は62万石であり、加賀藩出会い・薩摩藩出会いに次ぎ、尾張藩出会いとほぼ同じだが、実質的な財政規模は200万石級であったと言われている。
また、幕末期には蝦夷地にも藩出会い領が存在した。
幕末、幕府は蝦夷地警護を奥羽諸藩出会いに命じた。
その際、仙台藩出会いは現在の北海道白老町に元陣屋を置き、また、根室・厚岸・択捉・国後にそれぞれ出張陣屋を構え、択捉から知床、函館に到る地域を警護した。
1859年(安政6年)9月には、東蝦夷地(現在の白老町から択捉島一帯にかけて)が仙台藩出会いの領地となる。
やがて、1868年(慶応4年)に戊辰戦争が始まり、仙台藩出会い士たちは東蝦夷地から撤収した。
支藩出会い・分家筋支藩出会いとしては、陸奥国に一関藩出会い・岩沼藩出会いがあり、仙台藩出会い知行域内に浮かぶ島のような形で存在した。
これらの藩出会いは奥州街道沿いの軍事的要衝にあり、当主は仙台に屋敷を持ち、青葉城に登城していた。
岩沼藩出会い主および後期の一関藩出会い主である田村氏は、外戚の姓を名乗っているが伊達氏の一門である。
水沢藩出会い(中津山藩出会い) - 三代藩出会い主綱宗の子伊達美作守村和が陸奥水沢3万石(後に同国中津山に移封)を分与され立藩出会いした。
のち、登城中における旗本との諍いが原因で1代で改易された。
支藩出会いではないが、伊達氏一族の藩出会いとしては伊予国に宇和島藩出会いとその支藩出会いの吉田藩出会いがある。
このうち宇和島藩出会いは、大坂の陣にて戦功により伊予国宇和島城10万石を政宗の長男・秀宗に賜ったのに始まる。
なお、宇和島藩出会い領は「新恩」であり、宇和島伊達家は仙台の分家筋ではあるが、仙台藩出会いからの分知による支藩出会いではない。
支配体制仙台藩出会いでは藩出会い士の禄として、一般の藩出会いでは禄米が与えられるのとは違い、知行地を与える制度を取っていた。
(但し、全ての家臣が知行地を持っていたわけでは無い、詳細は下記参照)これは藩出会い主が動員できる兵数より、家臣が動員できる兵数の総数のほうが遙かに大きいという軍制を自然と作りだし、どちらかというと中世に近い支配体系である。
知行地内では一定の裁判権も認められていた。
仙台藩出会いは大藩出会いであるので、その家臣にも3万石・2万石といった大名級の知行地を持つ者もいた。
仙台藩出会いでは上級家臣を一門、一家、一族、準一家、着座、太刀上、大番と7つの家格に分類した。
また、藩出会い士は藩出会い内に散らばる城・要害・館・所・在所に居住し、仙台に屋敷を持っていた。
このような支配体制を打破するため改革を目指したことが伊達騒動がおきた原因の一つだとも云われ、重臣の知行に切り込むことは藩出会い内が乱れることを恐れてついにできずに明治維新を迎えた。
大藩出会いの仙台藩出会いが戊辰戦争で善戦できずに大きな犠牲を払ったのは、こうしたことも要因である。
防衛ライン・城・要害仙台藩出会いの城砦を参照 藩出会い全体の戦略[要出典]仙台藩出会い内の城・要害の大まかな配置対羽前奥州街道沿い 防衛ライン 浮牛城 金ヶ崎城 水沢城岩谷堂城人首城人首川 一関城 佐沼城登米寺池城 高清水城 岩出山城宮沢城西館涌谷城江合川 仙台城 若林城 川崎城岩沼城 平沢館船岡城 亘理城 白石城角田城坂元城 金山城 谷地小屋城この書体 :支藩出会いの城、表向きの主たる用途が要害ではないとされているもの、小規模な要害など。
青字:北上川沿いの城・要害青緑字:陸前浜街道(浜通り)沿いの城・要害緑字:阿武隈川沿いの城・要害「防衛ライン」: 河川と2つ以上の城・要害を用いたもの。
単独の城・要害と河川の組み合わせは以下に説明。
仙台藩出会いの南側は、城下町・仙台に到る3つルート(海側から、陸前浜街道・阿武隈川沿い・奥州街道)の縦深防御が中心で、それらのルートの結節点にも重要な城・要害が置かれた。
以下に、江戸時代後期まで存続した城・要害等を示す。
仙台藩出会い南西部と山形の間のルート等の防御平沢館 宮城県刈田郡蔵王町平沢川崎城伊達邦賢一門宮城県柴田郡川崎町前川字館山A)陸前浜街道(浜通り)沿いの防御(南から)谷地小屋城亘理伊達家 福島県相馬郡新地町谷地小屋字館前坂元城大条孫三郎(伊達宗亮)一家・大進宮城県亘理郡山元町坂元字館下亘理城亘理伊達家一門・大進宮城県亘理郡亘理町亘理字旧館B)阿武隈川沿いの防御(南から)金山城中島氏一族宮城県伊具郡丸森町金山館山角田城石川邦光一門・大進宮城県角田市角田C)奥州街道(中通り)沿い、仙台藩出会い最初の防御(最重要)白石城天守閣、代々片倉氏が守った。
白石城片倉氏一家・大進宮城県白石市益岡(奥州街道・白石城下)南からの動向次第では馬牛沼のあたりを防衛戦に一戦交える計画もあった。
奥州街道Cと阿武隈川Bの結節点舟岡城柴田氏一家・大進宮城県柴田郡柴田町船岡字館山(奥州街道・船迫宿)奥州街道Cと陸前浜街道Aとの結節点岩沼城古内氏着坐・大進宮城県岩沼市鵜ヶ崎(奥州街道・岩沼宿)奥州街道C沿い。
広瀬川北岸。
仙台城下入口の防御若林城政宗隠居所 宮城県仙台市若林区古城(奥州街道・仙台城下)仙台城仙台城自体は、北から東側にかけて広瀬川に囲まれ、その内側には北に二の丸空堀、東に二の丸土塁、三の丸水濠などが築かれた。
本丸の東側は広瀬川沿いの崖、南側は竜の口渓谷、西側は青葉山丘陵と自然障壁に囲まれ、難攻不落の要塞となっている。
また、青葉山丘陵の存在により完全に敵に囲まれることがなく、兵糧攻めに対する兵站路が確保されている。
仙台を訪れたスペイン領メキシコの対日特派大使ビスカイノは「江戸城に匹敵する」と防御の堅さを本国に報告している。
仙台城伊達氏本家仙台藩出会い主宮城県仙台市青葉区青葉山(奥州街道・仙台城下)仙台城下仙台城下町は当然防御戦を前提に都市計画されている。
南側は広瀬川によって守られ、奥州街道沿いに長町方面から進んだ場合、河原町で渡河することになるが、すぐ西に若林城が配置され、河原町から北側には足軽屋敷が集中している。
奥州街道は仙台城下の中心で仙台城大手門に連なる芭蕉の辻までの間、何度か折れ曲がる地点があり、直進できないようになっている。
東側は若林城から原町方面まで天神宮・薬師堂等寺社地が連なり、北側は北山丘陵に沿って輪王寺等の寺社地が配置された。
西側からの交通は山岳険しく困難である。
仙台の北側には東西に連なる「松島丘陵」があり、仙台平野を南北に分断している。
松島丘陵の北側は、広大な仙北平野となっているため、防衛には仙台藩出会い南側のようなルート沿いの「縦深防御」ではなく、「防衛ライン」を横方向(東西)に引くことになる。
仙北平野の防衛ラインは「江合川」である。
江合川の「防衛ライン」(東から)涌谷城涌谷伊達氏一門・大進宮城県遠田郡涌谷町城山西館後藤氏宿老宮城県遠田郡美里町不動堂字西館(鶴頭公園)宮沢城長沼氏着坐宮城県大崎市古川宮沢(奥州街道・古川宿)岩出山城岩出山伊達氏一門・大進宮城県大崎市岩出山字城山(有備館)涌谷からは松島方面、石巻方面への出撃が可能である。
仙北平野の防衛には、奥州街道沿いの防衛と、北上川沿いの防衛も組み合わせて、縦深防御も実現している。
高清水城石母田氏一族・大進宮城県栗原市高清水東館(奥州街道・高清水宿)佐沼城亘理氏一家・大進宮城県登米市迫町佐沼字内町佐沼城は葛西大崎一揆の拠点となったように、難攻の城である。
北上川沿い(南から)大身の家臣らの要害が並ぶ。
この地帯の防御を重要視していた事がうかがえる。
登米寺池城白石氏(登米伊達氏)一門・大進宮城県登米市登米町寺池桜小路・上町一関城田村氏一関藩出会い藩出会い主(伊達家外戚)岩手県一関市(奥州街道・一関宿)水沢城留守氏(水沢伊達氏)一門・大進岩手県奥州市水沢区表小路(奥州街道・水沢宿)金ヶ崎城大町氏一族・大進岩手県胆沢郡金ケ崎町西根字白糸・刈屋(奥州街道・金ヶ崎宿)人首川沿いの防衛ライン人首城沼辺氏 岩手県奥州市江刺区米里岩谷堂城岩城氏(岩谷堂伊達氏)一門・大進岩手県奥州市江刺区岩谷堂盛岡藩出会いとの境界近く浮牛城中島氏一族岩手県北上市口内町松坂盛岡藩出会いとの非公式な交渉の場にも使用されていたようである。
盛岡藩出会いは様々な要因が重なり、政情不安で、百姓一揆の件数は日本一であった。
難治の藩出会いである。
その境界となるので、何かと問題も有ったのであろう。
戦術的重要施設仙台藩出会い内には、長期籠城戦を見据えた大規模な城および港湾が合計4ヶ所あった。
籠城戦に耐え得る城仙台城(山城)白石城(平山城)「鎌倉」型の要害松島湾(狭義)- 瑞巌寺 松島は、「鎌倉」と同様に三方を山(松島丘陵)に囲まれ、さらに前面の松島湾(狭義)は多島で暗礁の多い湾となっている。
また、島と島の間には各所に水道があり、潮流が速い。
そのため、四方とも大軍を進めるには困難である。
そんな松島にあって、さらに崖に囲まれた地区にある瑞巌寺の畳下には、寺院としては不釣り合いな分厚い板が張られており、瑞巌寺自体が防衛拠点となるよう建築されたと考えられる。
塩竈湾-鹽竈神社(山城型)塩竈の前面の塩竈湾は、松島湾に比べるとやや水深があり、島も少ないが、松島と同様に「鎌倉」型の地形である。
鹽竈神社は港を囲む山の1つの頂上近くにあって、山城としての機能も持っている。
港に注ぐ谷川沿い低地から上がる急階段を表参道とし、その他は山に囲まれている。
そのため、伊達氏のみならず、歴史的に多賀城や奥州藤原氏などの保護を受けた。
重臣仙台藩出会い家臣を参照。
家臣の家格一門一門(大名) - 支藩出会い・内分大名の事。
将軍直臣であるが、仙台藩出会いからも一門の家格を与えられている。
一門(家臣) - 戦国時代の有力大名だった家や、縁戚関係にある家で、客分扱い。
常時の藩出会い政には関与しない。
一家 - 戦国時代の在地有力領主、輝宗の頃までに臣従した有力家臣、伊達氏庶流の家など。
準一家 - 戦国時代の有力大名の家臣や、在地領主一族 - 伊達家代々の家臣で、一家層よりも古くから臣従した家が多い。
永代着坐宿老(永代着坐一番坐) - 伊達家代々の家臣で家政を司った。
公式文書には奉行職と同格で連著した。
奉行職に就任した場合は一家の待遇を受けた。
着坐(永代着坐二番坐) - 正月、藩出会い主に太刀と馬を献上し、坐に着いて盃をもらう。
政宗の頃に低い身分から登用され、奉行職を歴任した家が多い。
着坐(士分) 着坐(士分以外)太刀上 - 正月、藩出会い主に太刀を献上し盃をもらう。
主に歴々の家から降格した家が多い。
太刀上一番坐(永代御盃頂戴)太刀上二番坐大番士召出 - 正月の宴会に出ることができる。
宿老以上の分家や、平士からの昇班が多い。
召出一番坐召出二番坐平士 - 一般の侍層で召出と共に大番士とも呼ばれる。
360人1組で10組が組織された。
主に騎馬隊を構成。
詰所により格付けされた。
虎之間番士中之間番士次之間番士広間番士組士 - 下級侍層で士分とされるもの(もっと細かく分類されている)卒、他(足軽、職人、小人など) - 下級侍層で士分とされないもの一族以上の家柄を歴々と言い、衣服の制限緩和、乗物による登城可といったような特権が与えられた。
また、宿老が奉行職に就いている時も歴々と同様の特権が発生した。
太刀上以上の家柄を門閥と言った。
組士以上の家柄が士分にあたり、それより下の家柄は士分以外として扱われた。
それぞれの家格の家が更に家臣団(陪臣)を形成している。
大進・歴々の家になると陪々臣までおり、平士クラスよりも禄高の多い陪臣も存在する。
禄高3000石以上(大進) - 衣服の制限緩和、乗物による登城可といったような特権が与えられた。
100石以上 - 軍役規定により馬上出陣が義務付けられる。
平士で100石以上の家は伊達世臣家譜に掲載された。
100石未満禄の支給形態としては、地方支給・蔵米支給・切米支給・扶持方支給などがあった。
知行地の拝領形態城拝領 - 白石城の片倉家のみ 要害拝領 - 実質的には城と変わらない要害を拝領 所拝領 - 町場を拝領在所拝領 - 知行所内に居屋敷、家中・足軽屋敷、山林等を拝領 在郷 - 知行所内に自前で居屋敷、家中・足軽屋敷を設置 藩出会い邸及び江戸における菩提寺文政年間当時、江戸藩出会い邸は芝口三町目海手に上屋敷、あたこ下に中屋敷、麻生や深川猿丁、品川木挽丁に下屋敷があった。
また京都藩出会い邸は長者丁小川東へ入る丁にあった。
また、江戸における菩提寺は芝の妙心寺派寺院である仏日山東禅寺で、一門の宇和島藩出会い、伊予吉田藩出会い、一ノ関藩出会いも江戸での菩提寺としていた。
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関連項目伊達氏伊達政宗伊達成実片倉小十郎岩出山城宮城県仙台城仙台市白石城伊達騒動堀田正敦伊達邦成今枝流影山流鈴鹿流柳生心眼流柳心介冑流仙台湾松島仙台坂さんさ時雨 脚注^ 大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中央公論新社、1999年など。
^ 田中英道『支倉常長 武士、ヨーロッパを行進す』ミネルヴァ書房、2007年、pp. 58-64.など。
^ 後見人に伊達宗勝、田村宗良^ 後見人に堀田正敦 外部リンク(江戸時代) 仙台藩出会い関連リンク仙台領国や仙台城下の古絵地図(宮城県図書館のHP「叡智の杜web」内)伊達四十八館 (仙台藩出会い領の地図・石高表)仙台市役所 仙台ゆかりの地 (伊達編)岩手県の誕生 (盛岡藩出会いと仙台藩出会いの境界)福島県相馬郡新地町 (現在の福島県内にある旧仙台藩出会い領)茨城県龍ヶ崎市における旧仙台藩出会い領 (陸奥国外の旧仙台藩出会い領)北海道白老郡白老町 (幕末に蝦夷地警備のための仙台藩出会い元陣屋があった)仙台藩出会い白老元陣屋資料館宮城県 慶長使節船ミュージアム サン・ファン館 (サン・ファン・バウチスタ号)明治まで存在した城(明治時代) 戊辰戦争敗戦後の仙台藩出会い家臣団の移住に関するリンク北海道と仙台藩出会い・伊達家札幌市白石区札幌市手稲区北海道石狩郡当別町北海道伊達市北海道登別市その他伊達交流サミット表・話・編・歴伊達宗家歴代当主平安末期 - 戦国末期朝宗 - 宗村 - 義広 - 政依 - 宗綱 - 基宗 - 行朝 - 宗遠 - 政宗 - 氏宗 - 持宗 - 成宗 - 尚宗 - 稙宗 - 晴宗 - 輝宗陸奥仙台藩出会い主(松平陸奥守家)政宗 - 忠宗 - 綱宗 - 綱村 - 吉村 - 宗村 - 重村 - 斉村 - 周宗 - 斉宗 - 斉義 - 斉邦 - 慶邦 - 宗基明治 - 現在邦宗 - 興宗 - 貞宗 - 泰宗 "

